昭和44年05月13日 朝の御理解
御理解 第26節
「信心には連れがいらぬ。一人信心せよ。信心に連れがいれば、死ぬるにも連れがいろうが。みな、逃げておるぞ。日に日に生きるが信心なり。」
どしなげきということがあります、さぁ今日は月次祭だと言う時には、まぁ隣近所みんな誘いうてお参りを致します。ところが誰か都合でお参りが出来ん、そすとそれにみんな習ろうてしもうてから、今日私共もご無礼しようかと言う風にして、そう言う様な事をどしなげきといいます。お参りも一生懸命一緒に連れだって参りね、誘い合わせて参る、けれども今度はお参りをしない事も、みんな一緒にお参りをしない、そう言う様な場合がありますよね、教祖がそう言う様な度し嘆き的な信心ではいけんと。
誰がなんと言うてもどういう場合であっても、これと自分で決めたら自分がこれと思うたらやり抜かせて頂くと、そこんところを頂き抜かせて頂くと、そういう信心をさせてそういう意味で信心には連れがいらんと。信心には連れがいれば死ぬるにも連れがいろうがと、例えば信心ということが本当に段々分かって参ります、けれどもそのう度し嘆き的な信心で、信心が続けられておったんではです、どこを行くでも連れが連れなしで行けない様な事になるです。
死ぬるにも連れが欲しいような事になっておる、なって来る。みんな逃げておるぞと。ここんところをどういう御神意かよく分かりませんけれども、一般に自分が一人生きていくと言う事だけでも大変な事だと、生きるというか自分が一人ね生きるということ、生きて行くということだけだって大変な事なのに、とてもとても人の事なんか構うておれるかと、と言った様な事を申しますでしょうが、私それは信心ではピントは大分外れますけれども、私はそういう気持ちで信心はせないかんと思うですね。
信心と言うのはその位真剣なものでなからなければ。これは信心を抜きにした人の言うことですよ、自分が一人生きて行くと言う事だって容易な事ではないのだと、難しいだとそれを人の事などかもうておれるかと、だから自分がこれと信じる事を、そのよかろうが悪かろうがその事を打ち込んでいくようにです、私は信心と言うのはそれを今度は信心で考えて今の様な行き方です。さぁおかげを受けなければならんというのに、誰に頼まにゃん誰彼にお願いせんならんということじゃない。
もう神様だけしかご承知はない、自分が一生懸命信心しなければ、誰ぁれも信心してくれる者はおらんのだと、というのがです例えばそういうその気持ちですね、そこに私は信心の一つのその人の持ってる力とか、真心とかの相違がそれぞれにありますから、その人の信心が、いわゆる確固たるものなって来る。信心には連れがいると死ぬるにも連れがいろうがとこう仰る。一生懸命に信心をまぁさせて頂いておる、けれどもその人の事なんか構える、かもうておれるかと言う位な言うなら信心が出来ませんとですね。
人からちょっと水を差されますと、はぁそれが本当かなとこうなら私は今日はお参りは出来んと、とてもそげんなん信心は出来んと言う風に言われると、自分が信心し過ぎよるかと言う様な感じがする事になって来る、人の言葉なんかに耳が貸しておれれるか、人の言う事なんかにとにかく自分の事は、人にやはりかもうてくれる筈がないと。だから自分が信心がするより他にないんだと、普通はちやほや言うてもいよいよギリギリのごたるばってん、例えば経済なら経済に行き詰まる。
金借りに回るとさぁ無理いいや貸してくれるかも知れんけれども、本当言いや実は逃げて回ってるんだと、まぁあっちがもうそれこそ一生懸命で借りに来らしゃってから、まぁあのう借りらしもするかも知れん、借りるかも知れんけれども、本当を言うたら逃げられとるんだと嫌がられているんだ、そういう厳しい事なんだから、だから自分が信心する他にないんだと、人の事なんかに耳を貸しておられんめが。
そういう例えば信心からです、最後に日に日に生きるが信心なりと言う様な力強い信心が出来て来るんじゃないかとこう思うんです。いわば一生懸命な信心、もうその時にはね他の連れなんかは言うてはおられないんだと、誰が参るから参らんからと言った様な事で自分がうろついたり、そんなら自分も参ると言った様な信心からはですね、日に日に生きるが信心と言う様なものは生まれて来ない。
もう言うならばここではねぇ冷酷までの信心、人をあぁこの人もおかげを頂かなんならんから、お導きをすると言った様なものじゃなくてですね。例えば自分の信心についてききる筈がないと言う位な信心、だから連れはそれは必要じゃない。そこから私は日に日に生きるが信心なりと、言った様なまぁ力強い信心が出来る、いうなら日に日に新とこう仰る、新の信心とはそういうところからしか生まれて来ない。そういう弾んだ心ね、一心を貫こうとする心。
そういうものをここでは、信心にはそういう心が必要だと言う事を求めておられる、教えておられると言う風に私は感じます。そこから私はよい信心が生まれて来るかと言うとですね、そこはという冷酷なように見えるガムシャラのように見える、けれどもそういう信心からね、自分を空しゅうする信心が生まれて来る。もうそこには連れもなんも必要じゃない。もうそれこそまぁ連れと言うなら神様と一体の信心、誰にも犯す事の出来ない犯されない心の信心。ないものを犯すないものを犯す訳にはいけない。
まだ自分の心がね、いろんな事は聞いて迷うたり犯されたりするということはね、まだ自分がある証拠です。自分がないもうそこに犯されるものがないなんにもない。そこで例えば日に日に生きる事が信心と言うことは、日に日に死んでいくことだと。日に日に死ぬるが信心なりと言う風に極限されるゆえんです。日に日に自分が空しゅうなっている、日に日に自分と言うものがを無くして行く信心。そういう例えば強い例えば言葉、言葉のその持つ一つの勢いというかね、それを私は信心のない者がいるんですね。
生きるということは自分が一人生きる事ですら難しいんだと、柔な事じゃないのだと、人なんか構うておれれるかと言う風にいう、そういうものがですね信心で言えれる信心ですいわば。ですからそこんところにはね、いわゆる何をも焼尽くす様なもの、又はその貫かせて頂くものそれがあるね。そのそういう信心の向こうにですね、自分と言うものを空しゅうするという信心があるのです。その頃初めて日に日に生きるが信心なりと言われるような、信心が生まれて来ると思うですね。
例えば食うか食われるかとギリギリの事ですね、ですから信心と言うのはですね、本当にまぁ例えて言うならどういうことでしょうかね、神様任せてになっての信心というなんか、これは自分を空しゅうして行くと言う事の、信心に一番適当な信心の進め方ですよね。そんな場合自分と言うものを空しゅうしなければ任せられませんからね、だからその素直なとなら任せると言う信心の前にはですね、やはり一途なものがその前に働いておらなければならん事が分かりますね。
只ダラーとですねぇもう親先生の言いなさる通りしときゃ、間違いなかがのちゅ位な信心じゃかち言う事です。それまでに前にゃやはりそれこそ火の付くような信心とでも申しましょうかね。例え岩石でもそこを貫き通していこうと言う様な信心。そこからです私は任せる、任せると言う事がそのまま自分を空しゅうするということ。そういう信心の中からですねぇ、そういう信心の中から体得させて頂くものですね、神様のそのう深遠なものに触れていくことの出来れる信心。
とても人の真似ろうじゃ出来る事じゃなか。まぁ言うならばまぁこれは商売は商売で言うならば、神様任せになりゃそのまま坊さんになってしまうかも知れん、全部そうなってしまうかも知れん。食うか食われるか。昨日一昨日でしたかね、お湿りがあっておりましたですね昼頃から、11日の日です。昨日高橋さんがお参りしてからお届けされるのに、その前の日にお客さん先方から、700個のお弁当が注文が入っておると、それでそのままお受けになられたらよかろうと。
もうそれが時にゃもうラジオとかテレビなんかでも、明日は雨だとか言いよった。お伺いされた時ももう今に降りそうな状態であった。それでまたあっ月次祭の晩でしたかね、もうお祭済んでからでも、もうおそらく家では受けると言うておりますから、準備はどんどんしよるだろうと思いますが、そのまま準備させていいだろうかとこういわれる。いいでしょうと私は申しました。それでそういうもう今にも降りそうなお天気に向かって、700個の弁当の用意が、一晩中かかって出来た訳ですね。
そして明くる日に出す、いよいよ出すの弁当が12時、お昼ならお昼に出ると言う頃からぼちぼちお湿りがなりだした。結局売れたのは300なにかしかであった。ところが先方でもやはり注文しておられる責任を少し感じられたんでしょうね、400から余りますから西鉄の売店の方で売る事にしようというて向こうから言うて下さった。向こうから課長さんがお見えた、こちらからも番頭さんが一人ついていく売り出した。ところがやっぱり人間は欲があるもんですから。
いくら掲げて向こうその向こうの方ではいうことにされた、ところが一個も売れないもう4時間迫って来る訳ですよね、もうそれでその自分ところの儲けなんかと言う事を、結局抜きにしなければ出来なくなって来た、まぁそうしておかげでまぁかろうじてようやく、まぁ売れてしもうたとこういうのである。もう本当に食うか食われるかでしょうがね。前の晩もう今にも普通ならもう、お天気もこうなんだからもう止めときなさいとか、半分にしときなさいと言う所でしょうけんれどもね。
こう言う時に人の言う事やら人真似やらや出来んのです。もし神様が仰って下さる事がそのままそれに損ったっちゃ構わんという、食うか食われるかと言うものがなかなければ出来んのです。これは自分を空しゅうしなければ出来る事じゃないです。けれどもですねその先に高橋さんが実感しておられる事です、初めて向こうのその先方から課長が来てから、残った弁当がこんなにも売れにくいもんだと、言う事を真から分かられたものであったということである。
今迄はもうとにかくこんな弱い商売じゃないなと私思いますね、それでも向こうから500ち言うたら500作ってやらにゃん、そして余ったら返すちいうじゃからあなた、それがやはり約束の上に商売がでけとるとですから、仕方のない事です、ですから普通でいうならばもうお湿りでもあろうか、曇ってきたついでには、だからもう出来るだけ、その作らん様に作らん様にするけれども、高橋さんそこを自分の意思じゃない、神様の御意思のままにとこう言う訳なんです。
もう夜中にもう恐らく用意はしようと思いよるが、ここままよかろうかとこう言う訳なんです、で私はそれはちょいと止めとかにゃいかんち言うなら、夜中にでも電話を掛けてからよし用意をすると止めろとこう言えれる訳けれど、よかろうと私そのまま続けてよかろうと私は申しましたから続けて、でけたところが明くる日が雨だとこういう、けれどもそれでは向こうとしても、そのう万一お天気にんりゃ売れるもんじゃからやはり断りきらん訳、それで700ちいうちゃるから700こうお下げる所が。
どっこいその日は売れなかったと、そこでまぁ向こうの方では後の残金を整理をするとに、手伝いに初めてこう見えてですね、いかに残り弁当をその売る事がですね、大変な難儀な事かということが分かられた、これからの例えば注文なら注文の上にも、向こうはそこん所をもう考えて注文を発っしてくれる様になるだろうというのである。ほな高橋さんななぁんもそういうことの中から。本当に三福さんに大変なご迷惑を何時も掛けとるなぁという事である。
そういうことを分かって頂いたということだけでも、まぁ有り難かったとこう言われるね。自分を空しゅうしたその先にです、新たな信心と言うか日に日に生きるが信心なりと言う様な新なものね、やはりその明くる日もです又神様のおかげで、おかげを受けなければと言う信心が続けられる。私はこの26節というのは大変難しい、また厳しい信心だと思います。ただ普通でいうね、渡し嘆きの信心じゃいかんぞと、言う程度に頂いてのおれれる御教えですね。
人が参らんちいうたっちゃ自分が参ると思うとるなら、それに連れられずにやはり自分の思いを貫けというだけですけれども、それをいよいよぎりぎり最後の日に日に生きるが信心なりと力強いむすんでおられる所から、この御教えを頂きますと、今日私が申しましたような厳しい、いうなら食うか食われるかね、日に日に自分と言うものを無くしていく空しゅうしていく、そういう私は強いものね。
それを信心のない人の言葉を持ってするとですね、自分が生きていくという事だって容易な事じゃないのに。人の事なんかかもうておれるかと、言う様な心持ちで信心をするということ。自分の事誰ぁれん人はね、例やぁ願ってくれとかなんとか言うたってです、結局自分自身のものだと、自分が結局一生懸命なるしかないのだと、人のどうやこうやと言うたからと言うて、そうて生きておる人の真似をする。
人の相談相手に本当な事になって来る筈がなか、むしろ相談すると却って逃げておるぞと、相手はと言う事をですここには厳しゅう教えておられるようです、ですから結局自分が確固たるもの、自分が確固たる信念、いよいよ自分が神様を信じて疑わないで済む信心をです、自分のものにしていってこそ初めて、日に日に生きるが信心なりと言った様な、その金光教の説く信心のような独創性とでも申しますかね、独特の生き方と言った様なものをこの26節の中から感じる出来ますですね。
どうぞ。